夜が明けるまで、君と
「また、寂しそうにしてるね」
つん、といたずらっぽく頬をつつくのは、隣に座るティナリの人差し指だった。顔を覗き込むように見上げてくるティナリの視線は、わずかに呆れたような色をしていて、それでいて気遣うような優しさも含まれている。
マハマトラの大きな仕事が一段落したタイミングで、ちょうどティナリがスメールシティに来る予定があると聞き、久しぶりに夕食を一緒に取る約束をした。そうして腹が満たされて夜も深まった頃。場所を変えて飲み直すために酒場に入り、カウンターに並んで座ってすぐのことだった。
「それほどでもない。いつも通りに仕事をしてきただけだよ」
「そう」
なんでもないように答えれば、ティナリの返事はそっけない一言だけだった。まるでお前の返答が不服だ、と言わんばかりの冷淡な態度。
オーダーした酒が卓に置かれると、ティナリはゆらゆらと杯を揺らしながら、香りを楽しむように顔を寄せている。こちらを袖にするような冷淡な振る舞いに反して、芳醇な酒の香りが気に入ったのか、その尻尾はご機嫌そうにゆるく揺れていた。
「……自分から聞いておいてそれか」
「君が素直に話してくれないからだよ」
ふん、と不満そうに鼻を鳴らして、ティナリが再びこちらに向き直る。わずかに目を細めてじいっと向けられる、見透かすような視線。なんだか心地の悪いような感じがして、逃げるように酒を呷った。強い酒精の、冷たいくせにじゅうと焼けるような熱さが喉を通り過ぎていく。
――人と喋ることは決して嫌いではない、むしろ好ましいことだ。特に、とっておきのジョークを披露できる瞬間などはとても楽しい。しかし一方で、自分の中でうまく整理がついていない物事について語るのはあまり得意ではないかもしれない、と思う。かつて砂漠の民として色眼鏡で見られることもあった幼い頃は、余計なことは言わない、を徹底した。ひたすらに真摯で誠実であることのみが自分の価値であり、ここで生き延びるための術で、だから発言はいつでも思慮深くあるべきだった。言葉にしたときに誤解がないか、何度も検算するように確かめてから発言する。ここで暮らすうちに身についた習慣だった。
だから、うまく言葉にならないままの気持ちを吐き出すことには、どうにも難しさがある。
「……まったく、思ったより重症みたいだね」
ティナリが困ったように呟く。なんと返せば良いかわからないまま酒を呷り、もやもやとした感情の輪郭を捉えるため、つい先日までかかりきりになっていた仕事のことを思い返していた。
――罪を犯した者の言い訳は、いつも理解できないことばかりだ。学者のはしくれとも思えぬほど破綻した散々な論理で展開される彼らの正当性についての主張は、聞くに堪えないものでしかない。釈明ついでに教令院の犬だのなんだのと罵られ、離せここから出せとわめき散らかされる。
彼らを理解しようとすることを諦めたくはないと思うが、理解できたことは一度もなかった。
完全なる断絶と、相互不理解。
規則は守るものであると同時に、学者たち自身を守るためのものでもある。規則によって庇護されるべき当の学者たちからマハマトラは疎ましがられ、恐れられ、それでも罪を犯す者は決していなくなりはしない。言葉で、行動で、自身が信じる正しさを彼らに否定され続ける。それが少しだけ――そう、寂しいということなのかもしれない。
「うーん。興が乗るように、七聖召喚のデッキを持って来たほうが良かったのかな」
「なんだと。デッキはいつだって必携だろう。どうして持ってこなかったんだ」
「君がそう言うと思ったからだよ……」
俺はいつでも対戦できるようにデッキを持ち歩いているぞ、と、七聖召喚の自慢のカードケースを取り出そうとするが、ティナリは制するように手でそれを遮った。七聖召喚って言った途端に調子いいんだから、とため息をつかれる。
こういう時には七聖召喚でもやればいい、と、いつもティナリ自身が言っているはずなのだが。
「七聖召喚はこの前も、その前も、一緒にやっただろ。たまには君の話をこうしてじっくり聞くのも良いかと思ったんだ」
内緒話をするように声をひそめて、ティナリが顔を寄せてきた。
傾いた杯の中で、からん、と氷が鳴る。ティナリの吐息から、ふわりと上質な酒の香りがした。
「それで、君がそんなに寂しそうにしているのはどうしてかな、セノ」
◆
マハマトラの仕事内容は機密が多く、部外者に話せる内容はとても少ない。どこそこの学者が悪事に手を染めてマハマトラに連行されたらしい、などと、ゴシップ好きの学生たちはよく噂話をしているが、それは同時に、関係者以外が知り得るのはその程度の情報だけだということでもある。
当然ながらティナリの耳に入る情報もその程度であるはずだが、そのくせ、ティナリはまるで何もかも知っているかのように、時折『寂しそう』だと言ってくる。
まずはなんでもいいからひとまず話してみなよ、と背中を強めに叩かれた。
そうして促されれば押し黙っているわけにもいかず、今宵も仕方なく、ぽつり、ぽつりと、とりとめのない話を始めた。今回の仕事で向かった土地のこと、罪を犯す者への憤りと理解の断絶について、あるいは自分の仕事のやり方やマハマトラとしての矜持。時にはティナリが興味を持つかも知れない砂漠の地にある見慣れない植物の話を混ぜたり、コレイの近況を尋ねたりもした。
それは、旅のキャラバンが積荷を整理する作業にも似た時間だった。旅の道中でぎゅうぎゅうに詰め込んできた鞄を降ろし、中身をあらためて整頓し、再びしまい込む。そうして綺麗に整えてやれば、背負う重さが変わるわけではなくても、鞄には余裕が生まれる。今までよりも少しだけ、鞄に入れられる荷物が増やせる――そういう、旅を続けるための儀式。『寂しそう』とティナリが称するものについて具体的に言葉にしたわけではないが、それでも、軽くなった気がした。
しばらく話し続けているうちに静かに夜は深まり、客が少なくなった酒場の店内を、スメールシティの夜風が通り過ぎていく。湿気を含んだぬるい夜風は二人の間に落ちたわずかな沈黙の間をするりと抜けて、服の裾を揺らした。
手元の杯に向けていた視線をふと上げてみると、頬杖をついたティナリが、満足気に笑ってこちらを見ていた。
「うん、まあまあかな。さっきよりだいぶマシな顔になってきた」
「……そうかな」
遠目に見える店内の窓ガラスにぼやりと映る自分の顔は、あまり変わり映えしないような気もした。とはいえ、自分の顔というものは、自分からは見えにくい。自分では変化がわからなくても、ティナリが良くなったと言うのならばそうなんだろうと素直に思えた。
――夢のようだ、と思った。その表現は、スメールの民が夢を見るようになった今、ようやく実感を得た。それはきっと、安堵と暖かさと、わずかな眠気に揺られるゆりかごの時間だ。
ティナリも夢を見ただろうか。
どれほど近くで生きていてもわかり合えないことばかりのこの世界で、共に過ごすこの時間の甘やかな心地が夢に似ているのだと、今だけでもいい、ティナリと分かち合えたら嬉しいと思った。
「ティナリ」
「ん?」
ふと思い立って、ティナリの瞳をじっと見つめてみる。
名前を呼ばれたティナリは後に続く言葉を待つように、怪訝そうに見つめ返してくる。
――言葉にならないわだかまりも、寂しさと称される何かも、ティナリには何もかも見透かされてしまうというのなら、これも伝わるのかと試してみたくなったのだ。
しばらく黙って見つめていれば、ティナリもきっとこの意図に気づいたのだと思う、けれど。
「こら。……だめだよ、セノ」
「どうして」
「――ちゃんと言わなきゃ、わからないよ」
子供に言い聞かせるような声色で、ティナリはこてんと首を傾げ、微笑んだ。酒が進んだせいかほんのりと色がさしたティナリの白い頬が、いつもよりわずかに緩んでいる。
その笑顔の意味は、俺にもわかるくらいに、わかりやすい。
「嘘だ。わかってるんだろ」
そう言い返せば、揺れる尻尾がこちらに伸びてきて、ふわりとくすぐるように腕を撫でた。誘い込む罠のように甘やかで痺れそうな感触。ふふ、と、ティナリが笑った。大きな耳と尻尾に少年のような澄んだ瞳を持つティナリのかわいらしい容姿に似つかわしくないその表情。
それは――獲物を追い込む、狩人の微笑みだった。
「ねえ、言ってよ。君の口から聞きたい」
「……敵わないな」
ティナリにだけ聞こえるように顔を寄せると、淡い照明に照らされて、被り物の飾りとティナリの長い耳のシルエットが、そっと寄り添うように近づいた。
窓の外に見えるスメールシティの街は深い眠りについていて、静かな夜空には月が笑うように浮かんでいる。杯の酒に溶けた氷が、からん、と鳴る。
今日の酒は上質だ。早々に飲み干してしまうには、まだ惜しい。