寂寞の夜は昔

 果てなく続く荒涼とした砂漠に人影がひとつ、長く伸びていた。既に日は深く傾いていて、振り返った西の空には、赤橙に淡く縁取られた稜線が浮かんでいた。――行程が予定よりも遅れている。日が沈む前には到着できる予定だったはずだ。思わず漏らした舌打ちは、誰にも聞き届けられないまま砂塵にかき消されていった。  真っ赤に染まった灼熱は未だにじりじりと照り、セノの背中を焼く。とめどなく額に滲んでは伝い落ちる汗を乱雑に拭った。単独での任務を終えた帰路。暑さと砂埃と、慣れ親しんだ孤独を連れ、ただ静かに歩みを進めていく。目の前だけをずっと見つめていた。暮れゆく夕日に照らされた赤い砂と、細く伸びる影。馴染み深い光景からふと思い起こされる感情はどこか郷愁にも似ていたが、しかし、決してそう呼べるほど温かな思い出ではない。  原風景。  幼い頃の記憶とは曖昧なものだ。多くの者がそうであるように、セノにとっても幼少期の思い出は朧気にしか残っていない。それでも、原風景とは脳裏に深く刻まれるものらしい。自身の一番古い記憶について尋ねられた砂漠の民は、決まってかつて彼らが見た砂漠の景色について話し出す。幼い頃からシティで育てられたセノでさえ、やはり思い出すのは砂漠の景色だった。  思い出すのは、赤い砂と、影。それから、首筋の鈍い痛み。  晴れた日の砂漠は夕刻になると西日を浴びて、いつも真っ赤な夕日の色に染まっていた。それから間もなく、沈む太陽を追いかけるように夜闇が赤砂を覆っていく。そうして夜を迎えるたび、決まって首の後ろのところが痛むようになった。痛みは闇が深まるほどに強く、蠢くように広がり、幼いセノを夜毎に苦しめた。まるで、身体の中に収められた神なる存在がセノの心まで飲み込まんと暴れているかのように。いつか本当に飲み込まれてしまうのだろうか。そんなうっすらとした恐ろしさを感じるたび、夜の訪れが憂鬱になった。  物心がついて大人の言うことが聞けるようになると、セノは夜な夜な謎めいた儀式に連れ出されるようになった。あの首の痛みが始まったのも同じ頃だった。両親の顔は覚えていない。セノの面倒を見ていたのは、儀式を執り行っていた祭司と、揃いの服を着た数人の見慣れぬ大人たち。彼らが雨林からやってきた学者だと知ったのは、それよりもう少し後のことだ。  夜に起こされ、祭司に連れられて神殿に向かい、儀式から解放された朝にようやく眠る。セノは他の子供たちとは異なる生活をしていたが、記憶にある砂漠での暮らしは、『実験品』の扱いとして想像されるほど過酷なものではなかった。むしろ食事は十分に与えられていて、物資に乏しい砂漠の生活においても、セノは――セノだけは、決して飢えることはなかった。一人で遠くに出歩くことだけは叶わなかったが、祭司のもとで過ごす限りは、激しい風砂に晒されることも、夜の寒さに震えることもない。身体を鍛えるための武芸はとりわけ熱心に仕込まれた。  セノは特別なのだと、よく大人たちは言っていた。  けれども本当に特別なのは、神に愛されたセノの身体だけ。神霊を降ろすための『器』が必要なだけで、求められているのがセノ自身でないことは、幼いながらに理解していた。降霊の儀式ができれば、神霊を降ろす器があれば、それで構わなかったのだ。  傷ついたとき、苦しいとき、他の子供が親や家族にそうしてもらっていたように、優しく抱きしめてもらった思い出はない。親代わりだった祭司がセノに触れるのは、永遠にも思える儀式の果て、疲労と苦痛で気を失うたび、起きろと頬を叩かれる時くらいのものだった。セノを特別だと言う大人たちはたくさんいたが、その言葉の意味は、他の子供たちに与えられたそれとは決定的に異なっていた。彼らにとってセノの心は、自我は、意志は――すべて不要なものでしかなかった。 「……いくら振り返ったところで、過去は変えられないだろう」  すっかり日が落ちた暗闇の中、ひとりぼっちの砂漠で、誰に聞かせるわけでもない。ただ己自身に言い聞かせるように、はっきりと言葉にする。  大切なのは今、目の前の時間だ。  まっすぐに顔を上げて、余計な思考は振り払う。そうして一歩ずつ、着実に砂を踏みしめる。感傷に耽っている間も歩みを止めることはしない。そのうち気がつけばずいぶんと行程を進められていたようで、遠くに人の気配がする集落と、そこへ続く道を照らす炎の灯が見えてきた。すっかり日が落ち、熱源を失った砂漠の風はずいぶん冷え込んでいて、闇の中に煌々と灯る松明の炎はセノをあたたかく迎えてくれるようだった。あと少しで目的地、キャラバン宿駅に着くだろう。  ここで、ティナリが待っている。  かけがえのない親友。大切な家族。  早く帰りたいと思った。セノを、本当の意味で特別と呼んでくれるひとの元へ。  ◆  いつもの場所、キャラバン宿駅で唯一の宿場の前でティナリが佇んでいた。その長い耳はすぐにセノの足音を聞きつけ、片手を挙げてセノを呼んだ。聞き慣れた、少し高めのよく通る声。その声に名前を呼ばれるのが、いつだって心地良い。 「ティナリ。暑くはないか?」 「さっきまではね……。日が落ちたから、もう平気」  口ではそう言いつつも、ティナリの額や首元はまだうっすらと汗ばんでいた。ちょうど近くに用事があるから立ち寄るついでに食事でも、と誘ってくれたのはティナリの方だが、彼自身は暑さにひどく弱い。日の高いうちは立っているだけでも無理をさせてしまっていただろう。すまなく思う一方で、そんな言葉は求められていないことも知っていた。率直にここで会えた喜びだけを伝えて、まずは宿の空室を確認する。既に夜を迎えて部屋はそれなりに埋まっていたが、今晩の宿泊が可能なことを確かめてから、二人分の広さの部屋を頼んだ。 「セノ。食事は?」 「昼に携帯食をいくらか食べたくらいだ」 「それなら、手早く用意できそうなものを頼んでくる。ちょっと待ってて」 そう言うと宿前にある酒場の店主を呼び止め、シャワルマサンドやミートロールを注文する。持ち帰りができるよう包んでもらうのも忘れず頼み終えたところで「それまでは、はい。これ」と、丁寧に包まれたピタをふたつ差し出してくれた。 「今朝、コレイが作ってくれた。君に会えたら渡そうと思ってたんだ」 「ありがとう。戻ったらコレイに、お礼を伝えてくれ」 「ふふ。それは直接君から伝えるべきだよ」 「そうか。……ティナリ、気付いているか?」 「何?」 「今のは『コレイ』と『お礼』を」 「待った……それは後でゆっくり聞かせてもらうよ。……ほら、食事の用意ができたら部屋に戻って食べよう。続きはその時に」  それに君はまず風呂に浸かるべきだと思うよ、と急かすティナリに背中を押され、セノは浴場に放り込まれた。  ◆  砂漠の太陽にたっぷり熱された水は、夜に浴びる頃には程良い温度にぬるまっていた。部屋に戻る前に、全身にまとわりついた砂塵と汗を流して体を清める。濡れた長い髪は最後にひとまとめにして、水滴が落ちなくなるまで絞るのを何度か繰り返した。髪が多少濡れていようともセノ自身は頓着しないが、清潔な宿の床を汚すべきではないという規範意識がそうさせた。周囲をよく見て気を配ること。礼儀正しく、誠実であること。教令院に入るまで同年代の子供と接する機会がほとんどなかったセノにそれを教えてくれたのは、養父――当時の素論派賢者、ジュライセンだった。  暗闇が赤い砂を覆うたびに続いた明けない夜の終わりは、拍子抜けするほど呆気ないものだった。関係していた学者のひとりから足がついたようで、倫理と人道を無視した研究に手を染めたことが露見した彼らは教令院で審判にかけられることとなった。学者ともども捕らえられた祭司も砂漠を去り、結果的に、降霊実験に関わっていた研究グループはわずか一夜の間に解体されたことになる。しかし、既に降霊儀式は成し遂げられていた。ヘルマヌビスの力を授かっていたセノもまた解放されることはなく、厳重な警戒のもとシティに送られることになった。周囲から隔絶された生活を送り、身寄りもないセノを連れ戻そうとする者は――この砂漠には、誰もいなかった。  その後のことは多くの者が知る通りだ。教令院の誰もが一度は、セノに関する噂を耳にしたことがあるだろう。『実験品として連れてこられた砂漠の子供を、賢者ジュライセンが養子に取った』――その事実はもちろん、賢者がそうまでして手元に置いたセノの生い立ちや秘められた力についての憶測は、いつの時代も人々の興味と関心を引くものだった。セノが教令院に入学してからも、卒業した後も、大マハマトラになってもその噂は絶えることなく、次第にゴシップめいた尾ひれをつけながら人々の間で流れ続けた。  浴場を出て、水滴をこぼしていないか気をつけながら廊下を歩く。周囲に人の姿はなく、ひたひたと静かな素足の音だけが鳴っていた。  部屋へ戻ると、ティナリはベッドの上でくつろいでいた。既に寝巻きに着替え、大きなブラシがベッドサイドに置かれている。セノが湯を浴びている間に、彼の日課であるしっぽの手入れが終わったのだと伺えた。  セノに気付いて振り返ったティナリと、ぱちり、視線がかち合う。 「……セノ?」  物思いに耽っていたのが顔に出ていたのか、ティナリが怪訝そうにこちらを見ていた。仏頂面をなんとかしろと言うくせに、当のティナリはセノの表情の違いをよく理解している――それは、時に不都合なほどに。思わず視線を外して背を向け、部屋の扉をゆっくりと閉めた。再びティナリを振り返る時にはもういつも通りの佇まいで、なんでもない、と態度で示す。  自身のこういった過去について、ティナリにも詳しく話したことはない。あえて隠しているわけではないが、もう終わったことだ。セノがティナリと友達であるために重要なことではなかったし、ティナリもわざわざ聞こうとはしなかった。もちろん学内では、セノの出自に関する虚実入り混じった与太話が数え切れないほど噂されていたが、ティナリはその一切に取り合わなかった。信憑性の低い噂話よりも、自分で見たことや聞いたことを信じる――それは教令院を離れたとしても、学者である自分にとっては当然のことなのだから、と。  それでも、共に過ごす日々の中でぽつぽつと話したこと――たとえば血の繋がった家族を知らないことや、砂漠にいた頃に神霊の力を授かっていること、砂漠出身にしては砂漠の民の知人が多いわけではないことなど――こういったエピソードを繋ぎ合わせれば、大まかな流れは推測できるだろう。聡明なティナリにとってそれが容易いことだというのも、よくわかっている。  けれどその答え合わせをする必要は、まだない。自分たちは何もかもを伝え合うような関係ではない。すべてを分かち合わなくても、ただありのままの自分で隣にいていいのだと、互いに知っているのだから。 「待たせたな、ティナリ。戻ったよ」 「うん。じゃあ、そこ座って」  部屋に戻るとすぐにティナリの前に呼ばれ、背を向けて座らされた。ティナリはまだ濡れているセノの髪を丁寧に拭いて、それから慣れた手つきでオイルを馴染ませていく。つける瞬間にだけふわりと広がる甘い花の香りは、それがティナリ手製のいつものオイルだと教えてくれた。少し香りが甘すぎて似合わないだろうと伝えたことがあったが、様々な配合を試した結果これが最も効果があった、僕の試行錯誤の成果を何だと思っているんだ、などと反論され全く取り合ってもらえなかった。頼んだ覚えのないことではあったが、セノのためにしてくれたと思えば何も言えず、それ以来、セノの髪のケアはティナリに一任されている。  首筋の痛みは成長に伴い治まっていったが、首の後ろが見えているのはどうにも落ち着かなくて、セノの髪は子供の頃から長いままだった。幼い子供には手入れが行き届かない長さだったが、養父は面倒がる素振りも見せず、風呂上がりにはよくセノの髪を拭き、櫛で梳かしてくれた。養父はセノが自分で選び決めたことを尊重してくれた。血が繋がらなくても――むしろ繋がらないからこそ、親の権威を振りかざすことはなく、常に一貫して自立した人間として扱われていたように思う。かつては実験品扱いだったセノが人間不信に陥ることもなく真っ当に育ったのは、家に帰れば養父が必ずセノをセノとして扱ってくれたからだ。あの家でセノはいつも居心地がよく、安心してよく眠れた。  それに、あのとき養父がそうしてくれたように、今はティナリの手が優しくセノの髪に触れている。 「……ありがとう、ティナリ」 「構わないよ。お疲れさま」  少し間が空いて、それから、「おかえり」と。ティナリの言葉が、家に帰ったように迎えてくれた。  それは単なる喩えではない。家は、確かにここにある。  一部のスメールの学者間で築かれる家庭の中には学術家庭という概念があるが、あれが正直なところあまり好きではなかった。幼い頃、自分自身の家がそれではないかと何度も邪推されてきたからだ。あのジュライセンがセノを引き取ったのは、セノが『実験品』だからなのだろうと。  初めて学術家庭という概念を知った日、セノはたまらず家に帰って養父をまっすぐに見据え、うちがそうなのかと訊ねた。養父はそれを聞くなり小馬鹿にしたように鼻で笑ってから、この素論派賢者と論文を共に書こうだなんてあと二十年は早いと言い放った。思わず、二十年は言いすぎだろう、数年もすれば俺にも書けるようになるはずだ、などと言い返したら、生意気だと笑われて髪がぐしゃぐしゃになるまでかき回されたのだった。あの、無遠慮にセノの頭を撫で回した手の優しさとあたたかさが、養父が確かにセノを家族として迎えてくれたのだと信じさせてくれた。  だからこそ、その憶測を耳にするたびに養父まで侮られたように思えてならなかった。学術家庭とは真逆の、純粋な家庭のあり方をセノに示してくれたのが、他でもない養父なのだから。家族を形作るものは、血の繋がりでも学問の繋がりでもない。ただ人と人が寄り添い互いを思い合えたら、それが家族なのだと。  だから、セノの家は今、ここにある。  ふと、そうしたいと思ったその心のままに、背後に座るティナリに寄り掛かるように身体を預けた。手入れの途中だと叱られるかと思ったが、もうほとんど終わっていたようで、戻るようにと背中を押されることはなかった。 「どうしたのさ」  預けたセノの重さを確かに受け止めて、ティナリがくすくすと笑った。そのまま回された両腕に、後ろから優しく抱きしめられる。寄せ合った温度は人肌のぬくもりで、それが嬉しくて、たまらなかった。とくん、とくん、と背中に感じるもうひとつの鼓動は触れているところで自分のものと混ざり合えるような気がして、同じ速さになればいいと思いながら、長くゆっくりと息を吐いた。伝わってくる体温が心地良い。ずっと触れていたい。優しくあたたかい腕の中に抱かれているうちに、こわばっていた身体が少しずつ解かれ、緩められていくのを感じた。緩んだことで始めて、無意識のうちに張り詰めていた緊張に気付かされる。 「気付いてなかったの? 仕事を終えた後の君は、だいたいそんな感じだ」  感じたことをそのまま口にすれば、ティナリがおかしそうに笑った。セノが自分自身でも知らないことさえ、ティナリはよく知っている。  ティナリが耳元でもう一度、おかえり、と呟いた。セノの前でだけ使う、ささやくような静かで甘い声。 「ただいま。……少し、疲れた」 「一日中砂漠を歩いたんだろ、当たり前だ。君だって人間なんだから」  当たり前、とティナリは言う。けれども、かつては砂漠の実験品で、教令院では怪しげで無愛想な砂漠の民。そして今は誰もが恐れる大マハマトラである。どこに行っても様々な肩書きや役割が付いて回る人生で、単なる個人としてセノに接してくれる人はそれほど多くない。決して当たり前ではないことを、何のてらいもなく当たり前だと言えてしまうティナリが、たまに眩しい。  セノを抱きしめていた腕がゆるりと解かれて、重力に従って優しくベッドに横たえられる。 「セノ。何かあった?」  真上からティナリに瞳を覗き込まれてそう問われたとき、逃げ切れなかったことを悟った。部屋で最初にセノの顔を見たときにはもう気付いていたのだろう。促すように、ティナリの手のひらが頬をするりと撫でた。 「なぜそう思う?」 「寂しそうだ。長い仕事の後や、砂漠から戻った日にはよくそんな風にしてるよ、君は」 「……お前が言わなければ誰もわからないよ、そんなこと」 「何だよ。僕が来なきゃ良かった、とでも言いたいの?」 「相変わらず意地が悪いな。……そうは言ってないだろう」 「まったく、素直になればいいのに」  一瞬の沈黙の後、唇が触れ合う。その口づけは果たしてセノが求めたものか、ティナリに与えられたものか、どちらとも取れるものだった。けれどもわずかな時間だけ触れ合った唇が離れ、再び目を開けたとき、互いに同じ気持ちであることは言葉を交わさなくてもわかっていた。 「……疲れてるだろ。平気?」 「これで終わりの方が、酷だ」  わかっているくせに、それでも確かめようとするのがティナリらしいと思った。ここまでしておいて逃がすものかと、今度はこちらから唇を奪う。荒っぽく引き寄せて噛みついた唇は少し戸惑ったようにすぐに離れていって、見上げた視線の先、わずかに欲の滲んだ瞳がセノを見下ろしていた。 「……煽るなよ」 「気付いたからには、なんとかしろ」  夜の砂漠には、あの頃の小さなセノがちらつく。さらさらと風に流れる赤い砂が闇に覆われるたびに、きっと、何かを諦めようとしていた。それは例えば、うまく打ち解けられないままの同じ年頃の子供たちのことだったし、幸せそうに暮らす彼らと家族の姿や、毎夜の儀式に向かう足取りの重さ、ずきずきと身体を蝕む痛みのことだった。  そのひとつひとつが心に浮かんだときの、果てのないほど広く見える砂漠、そこにぽつんと佇んでいる自分のちっぽけなこと、いきものの気配のしない夜に抱く感傷。それを『寂しい』と呼ぶのだと――ティナリに言われなければ、きっと気づかなかったはずだった。 「何でもない。本当に、何があったわけでもないよ。……ただ、」  ティナリがいるから、満たされる。満たされるから気付いてしまう。 「……お前が言わなければ、知らないままでいられたんだ」  ぽつりと零し、それ以上は言うつもりがないと噤んだ唇に、ティナリがもう一度、触れるだけの優しい口づけをくれた。  けれど、もうそれでは足りない。もっと触れたい。もっと触れてほしい。より深く、長く、満ち足りたい。  ティナリに触れられるたびに、抱いたことのなかった感情を引き出されていく。  貪欲になっていく。  もっと、欲しい。  その先を求めてぺろりと舌を出せば、意図を汲んだティナリの唇が開き、迎え入れられる。もっと深く、と伸ばした手で抱えたティナリの頭の上で、敏感な耳が震えているのを感じた。ちゅ、ちゅ、とわざとらしく音を立てながら深い口づけを交わすのが、無言の合図だった。この先を予感させる感触に煽られながら、互いに夢中で舌を絡め合う。  晒した赤砂の肌の上を、ティナリの白い指がなぞっていく。腹や胸を撫でるゆびさきが、焦らすように胸先を這う。胸の筋肉の起伏を確かめるようにしばらくゆっくりと動き回ってから、ついに色づいた先端に触れた。身体を撫でるふりをした指に時折優しく捏ねられて、そのたびにひくりと肩が跳ねた。いまだ愛撫と呼ぶにはもどかしい曖昧な触れ方で、けれどもそこは次第につんと尖りを増していく。  最初はこんな風になったりしなかった。ここを触られると気持ち良くなれることさえ、この身体は知りもしなかったのだ。ティナリとこういうことをするようになってまだそれほど回数を重ねたわけではない。それなのに、身体は教えられた快楽を着実に覚え始めていた。知らなかった頃にはもう戻らない。ティナリの手で、すっかり作り変えられてしまった。ゆびさきがそこを掠めるたびに、ふ、ふ、と零れるかすかな吐息が、沈黙の中でいやによく響く。反応してしまう身体に恥じ入り思わず顔を覆ったが、その手はすぐにティナリに捕えられてしまう。 「気持ち良くなれるようにしてるんだから、いいんだよ」  両手をそっと絡め取られて、ベッドに縫い留められる。ちゃんと見てて、と言われるがままに視線を落とせば、ティナリの舌が見せつけるように伸ばされて、ゆっくりとその膨らんだ先端に触れた。ざらついた舌の腹で舐められると、今まで与えられたくすぐったさとは異なる、ぞわりとした感覚が走った。じわじわと身体の奥に燻り続けていた熱を暴くような、甘く痺れる快楽。思わず捩った身体を、けれども逃がさないように、敏感になった先端を唇でやわく食んで、そのまま舌先で弾くように何度も転がされる。与えられる甘やかな熱は堪えようとしても抑えきれず、それなのに両手を繋ぎあったままでは顔を隠すこともできなくて、ただ切なく息を吐くことしか許されない。 「……っ、ふ、ぅ」 「我慢しないで。声、出して」  行為のたびに、我慢しなくていいとティナリは言う。  痛いこと、苦しいこと、身体に何をされても声を上げることなく耐える癖がいつの間にかついていた。  決して、過去を隠しているわけではない。それでもあえてティナリに言わなかったことがあるとすれば、夜な夜な行われる降霊儀式のたび、全身の痛みがセノをひどく苦しめていたことだ。まるで皮膚の内側から突き破らんとする何かが体内で暴れ回っているような、子供には到底耐え難い苦痛。けれども、どれほど声をあげて泣き喚いても、大人たちが儀式を止めることはなかった。セノの声が届くことはなく、拒否したり抵抗したりすればそれだけ儀式長くなるだけ――それを理解してからは、じっと耐えるようになった。声を殺して、心を殺して、長い夜が終わるまで我慢する。セノにとっての夜とは、そういうものだった。 「ん、……くっ……」 「大丈夫、ゆっくり息、吐いて……吸って。うん、良いよ」 「っ……う、あ、っ」  そんな過去など知らないはずのティナリは、それでも、いつもセノに優しく触れた。そのあたたかい手で頭や頬をやわく撫でられるたびに、ただ言葉にするよりもずっと深く、彼がセノを想っているのだと教えてくれた。  ゆったりと続けられる愛撫はむやみに刺激を強めることはなく、息を詰めてしまうセノをいたわるような加減をしていた。言葉で導くだけでなく、絡めたゆびさきが呼吸を促す速度でセノの手のひらをさする。未だ快感に怯えてしまう不慣れな身体も、快も不快も押し隠そうと染み付いたこの長年の習慣さえも、ティナリが触れるたびに緩められ、解かれていく。 「気持ち良くなって。僕が、そうしたいんだ」 「っく、あ、ティナリ……っ」  ぴんと立ち上がっている乳首をふたたび口に含まれ、じゅっと吸われると先程よりも明確な快楽に背中が跳ねた。もっと、と胸を突き出してねだるような形になり、羞恥に襲われる。舌先で擽られて身を捩った先で、ティナリの片手が下腹部まで伸ばされる。そのまま下履きの中に差し入れられて、膨らみきった性器を取り出された。濡れて濃い染みを作った下履きはあっさりと取り払われ、先走りを手のひらで伸ばされる。ぬかるんだ手のひらに包まれてゆるく扱かれると、腹の奥に溜まっていた熱が形をもって、ティナリの手の中で次第に固くなっていくのが感じられた。 「あっ……んっ、はぁ、っ……」 「ん、こっちも」  簡潔な言葉だけで示された続きは、ティナリ手製のオイルの香りが教えてくれた。髪につけるために調合されたものとは異なる、とろとろと流れる粘性の潤滑剤。陰茎に伝わせてとろりと尻の方まで流れたそれを指で掬い上げ、後ろの窄まりへと少しずつ馴染ませる。不慣れなりに身体はしっかり覚えているようで、丁寧に解されればそのうち、思い出したようにティナリの指を受け入れ始めた。異物感で締め付けてしまう中をかき分けるような指の動きに合わせて、くちくちと小さな音が鳴る。しなやかな指が潤滑剤を馴染ませながら奥へと押し広げ、擦っていく。痛みなど感じさせないその器用な蕩かし方で、他の誰でもないティナリに触れられているのだと実感させられる。さっきまでセノの髪を梳いていたあの優しい手が、この身体の奥深いところまで慈しんでくれているのだと思うと、うれしくて、たまらなかった。応じるように、滑りが良くなった中に差し入れる指が増やされる。言われた通りに、今度は意識して息を吐く。解しながら中を擽られる刺激に背中が震えて、は、と思わず漏れた息が荒い。もっと、もっと、欲しくなってしまう。ふわふわと浮足立つ感覚に溺れながら、縋るようにティナリの手を掴んだ。 「どうしたの」 「ティナリのも、触りたい」 「……わかった」  後ろに差し入れた指はそのままに、ティナリが少しだけ身を寄せた。手を伸ばせば届く位置にある膨らみを服の上から撫でさすると、芯を持った熱の手触りがした。下履きをくつろげて、自分のものにそうしてくれたように、湿らせた手のひらで包んでゆっくりと上下に動かす。ぐちゅぐちゅと淫らな水音を立てながら、手の中でティナリのものが徐々に硬さを増していくのが感じられる。  身体を起こせば届きそうだと気付いて、手の中で硬さを増したそれをぱくりと口に含んだ。ばか、と戸惑いと呆れの混じったような声が一言だけ、頭上から降ってきた。ぴくりと震えた陰茎の先端を何度か舐めてから、唾液と体液が混じり合ったものを啜り上げる。気分が良い。余裕のない吐息と跳ねるしっぽ、口内で膨らんでいく性器の反応は、語るよりも雄弁にティナリの感じることを教えてくれた。 「……も、いいから」  とん、と軽く肩を押されて、名残惜しく思いながら口に咥えたものを離した。ティナリも同様に、ずっと解していた後ろから指を引き抜いた。増やされた指が出ていくその感覚で、ずいぶん滑りが良くなっているのが自分でもわかる。膝を入れられて脚を割り開かされ、陰茎の先端が押し当てられる。宛てがわれた熱が押しつけられると、くぷ、と入口があっさりと先端を飲み込んだ。身体を内側からぐずぐずに蕩かしていく切ない快感と共に、ティナリのものが中を押し広げ、ゆっくりと奥へと埋められていく。 「ティナリ」「ん」呼べば、応えてくれる。目が合う。目が合えば、思いが伝わる。「あつい」「僕も」わずかな間だけじっと動きを止めて、互いの熱を確かめ合うように呼吸を重ねた。繋がりあったところからひとつに溶け合ってしまいたかった。知らなかったはずの欲が、とめどなく溢れ出してくる。「きもち、いい」「うん」もっと欲しい。それは言葉にするまでもなく通じ合って、ティナリの腰がゆっくりと動き出した。ず、と先端を残して引き抜かれてから、ぐちゅ、と奥まで届かされる。中で擦れるのが、甘やかで切なくて、きもちいい。慣らすようなゆったりとした抜き差しを何度か繰り返されたあと、腹側のしこりをぐっと押し上げられると、痺れるような快楽に全身を支配され、思わず声が漏れた。 「んっ、あ、ああっ……!」 「……もっと、いいよ」  激しくはなくとも、弱いところを責め立てることには容赦がなかった。とん、とんと突かれる速度は変わらないのに、与えられる甘い痺れは波のように大きなうねりとなって押し寄せる。意思とは関係なく身体を跳ねさせ、思考と理性が剥ぎ取られていく。びくびくと背中が勝手に反れて、こわいほど気持ちよくて、縋るようにティナリにしがみついた。 「あ、ぁ……あっ……や、っ、ティナリ……っ」  与えられる快楽はどこまでも優しい。優しいままなのに、高められていく。知らなかった快楽に溺れさせられて、自分を見失いそうになるのがどこか恐ろしかった。そうして必死でティナリを呼ぶのを、けれどもティナリはどこか嬉しそうな熱っぽい瞳で見下ろしていた。 「セノ、いいよ」  そう言われて口づけを落とされたら、もう抗うことなどできないのだと知っているくせに。ティナリの方だってそれは同じで、余裕がなくなるほど衝動的に、打ち付ける速度が少し早くなる。湿った肌をぶつけながら、やわらかいところで擦れ合うのが気持ちよくて、互いが互いに夢中で溺れることが、すきだった。 二人揃ってたっぷり身体を重ねて、繋がり合うことで満たしていく。 「はぁ、っ、ティナリ、あっ……あ、あ」 「ん、セノ……っ」  幼い頃からずっと、セノの心の中には砂漠があった。赤い砂の上に影が伸びて、ひろくて、ぽつんとひとり、しずかで、ときどき痛かった。  夜の砂漠。セノの原風景。  あるいは、ティナリが『寂しそう』と呼ぶものの正体がそれなのだとすれば。  寂寞たる砂漠の夜を超えるためのそれを愛と呼ぶのなら、きっと、それがずっと欲しかった。いとおしいひとの肌のぬくもりを感じて、そこに自分の体温を重ねて、あたたかい布団にくるまって穏やかに眠る――そんな夜がいつか来ることを、ずっと心のどこかで待ちわびていた。 「ティナリ、ティナリっ……!」  何度も、何度も名前を呼んだ。  すきだとか、あいしているだとか、いくら重ねても言葉ではぜんぜん足りないけれど、足りないなりにどうにか示したくて、必死になってティナリを呼んだ。震えたくちびるに、優しく触れる口づけが降ってくる。言葉では上手に表せないことまで、重ねた手のひらの熱さ、混ざり合う汗と吐息、交わした視線、そういうものの方がずっとよく伝えてくれるような気がした。  甘くて切ないしびれ、背中から頭のてっぺんまで走って、身体中のぜんぶを支配して蕩かしてしまいそうなくらい、きもちいい。ぎゅ、と握りあった両手が切羽詰まったように力を込める。湿った肌の腿が尻にぶつかる音、止まることなく続く律動に高められてしまって、程なくして堰を切ったようにぶわりと溢れ出す。 「――セノ、っ、あ」 「あ、ティナリっ、う、あ、あぁ――……っ!」  中でどくどくと脈打つ熱の存在を感じながら、同時に腹の上にとぷりと溢した自身の白濁が肌をつたい落ちていく。体液でべたべたになった身体を、それでも厭わずに抱き寄せてティナリから、ふわりとあの甘い花のオイルが香った。それはやっぱり自分に合わせるには甘すぎるような気がしたけれど、身に余るとティナリに言えばまた叱られてしまいそうだ。だから、ただ黙って、ティナリの身体を強く抱きしめた。  隣に誰かが寝ているのが、いつも嬉しかった。すぐに手の届く人肌のぬくもりにじゃれ合ったり、未だ覚めきらない眠気にまどろむのも好きになった。  まだ夜は明けきらない。汗や何やらを手早く清めて、倦怠感と事後のにおいの残る寝台で身を寄せ合う。冷めやらぬ熱が落ち着くまで、ささめくように言葉を交わし合うこの時間を気に入っていた。とりとめのないことばかり話しているこの時間で、ひとつティナリに訊ねてみたいことがあった。 「お前の幼い頃の、一番古い記憶はどんなものか――教えてくれないか」  その問いにティナリは少し意外そうな顔をしたけれど、そのうち記憶をたぐるようにしばし考え込んでから、ゆっくりと話し出す。凛と冴える軽やかな声が、薄明の砂漠を彩っていく。ティナリの思い出をひと通り聞いて楽しんだら、今度は自分から、少しだけ話してみようと思った。  すべてを話す必要はない。今はそれで構わないから、ただ、ティナリに聞いてほしい。  ずっと心に残り続けていた砂漠の風景と、寂寞の夜のことを。