まなざしの先の君は

   机の上に積み重ねられた植物図鑑と、無造作に広げられた色とりどりの草花のサンプル。レンジャーの仕事道具が並ぶ中、そこに不似合いな小型の機械があるのを目ざとく見つけて、セノは怪訝そうな顔で僕に問いかけた。 「写真機か」 「うん。今度、アムリタ学院の学生と合同で一般向けの講座を開くんだけど、そこで使う予定なんだ」 「買ったのか? スメールではあまり流通していないし、それなりに高価だろう」 「いや、カーヴェに借りたんだよ。ほら」  写真機を手に取り、底面を上に向けて見せた。小さく刻まれている印は、この写真機の持ち主がカーヴェであることを示している。 「この間、一緒にシティで飲んだだろ。次の講座で写真機を使いたいんだけど、買うにしても借りるにしても当てがないって話をしたら、彼の私物を貸してくれることになったんだ」 「そんな話、していたか。……記憶にないな」 「ああ、そういえばあの時、君はいなかったんだっけ。仕事で遅れてきたものね。あの日はついでにカーヴェに仕事の相談にも乗ってもらえて、本当に良かったよ。僕はしばらく教令院から離れていたけれど、彼は卒業後も妙論派のプロジェクトを手伝う機会が多かったみたいだからね」 「……そうか」 「なに。拗ねてるの? 不満があるなら次からは仕事をきちんと定時で切り上げることだね」  くすりと笑って肘で小突いてやれば、別に拗ねてない、と素直じゃない返事が来る。僕が黙ってシティに行くたびに『来るなら連絡しろ』って不服そうに言ってくるのは誰だっけ。他人には興味ありません、みたいな澄ました顔をしているくせに、本当は友達のことが大好きで仕方ない寂しがりだ。セノのそういう飾らない素直な感情がこうして垣間見える瞬間、その気持ちが自分に向けられていることを感じるたびに胸の奥がくすぐったい気持ちになる。  写真機を丁寧に端に置き直してから、椅子を引いて腰掛ける。様子を窺うように背後に立ったセノの腕が、そのまま抱きしめるようにするりと首元に回される。珍しく甘えたな態度がわかりやすくて、心の中だけで小さく笑った。そのまま散らかった机に向かって、いくつかの植物サンプルとスケッチブックの絵を見比べながら整頓する。 「アムリタの学生たちから聞いたけれど、最近は教令院での研究にも写真を使うようになっているんだって。確かに、植物の色や形を正確に記録できるのは便利だね。……個人的には、やっぱり実物を見て自分でスケッチをする方が好きだけど」  大きく開げたスケッチブックを、後ろからセノが覗き込んでいた。これは君が少し前に持ってきてくれた砂漠の植物だよ、こっちはコレイが育てたスメールローズでやっと咲いたんだ――と、ひとつずつ指で示しながら見せていくと、うん、そうか、とセノがひとつひとつ相槌を打つ。耳元で小さく聞こえるその穏やかな声が、遠くでかすかに鳴く暝彩鳥の声と混じり合う。  さらさらと流れる小川のような、あるいはふわりと葉を撫ぜる風のような。そんな心地良い時間が続く。ふ、と肩越しのセノが笑ったような気がした。 「いいな。……俺は、ティナリの描く絵が好きだよ」 「そう? すごく上手ってわけじゃないけど、褒められると悪い気はしないな」  ありがとうと礼を伝えてからスケッチブックを閉じる。ほらこれ片付けるから、としっぽでセノの脇腹をくすぐると、回されていた腕が名残惜しげに離れていった。スケッチブックをいつものリュックに戻し、端に避けてもらっていた写真機を机の中央に置き直した。 「写真はもう撮ったのか」 「必要な植物サンプルの写真は撮り終えたよ。ただね……」 「問題があるのか?」 「学院側から、講座当日の様子を撮りたいと言われてるんだ。賑わっている様子が伝われば今後の予算申請も通りやすいからって。教令院としてもいま話題のフォンテーヌの新聞に写真を提供して、スメールの学術発展をアピールしたいみたい」  はぁ、と深い溜め息が漏れる。ふわふわと耳を撫でられて、自然と両耳がうなだれていることに気がついた。 「でも、僕は写真に撮られるのが得意じゃないだろ。いつも通り自然にしていればいいとはみんな言うけれど、いざ写真機を向けられるとさ……どうしても気になるだろ」  大方、卒業生である僕の存在を目立たせて箔を付けるのが目的なんだろうけど、と零しながら嘆息する。写真は苦手だから勘弁してほしいと繰り返し言っているのに、それでも構わないからと一歩も退いてくれやしない。 「なるほど。……それなら、俺が撮ってやろう」 「セノが?」 「ああ。俺は隠密行動が得意だ。お前に気配を悟られず、自然な姿の写真を撮れる自信がある」 「そりゃまあ、得意なのは知っているけど……」  自信満々といった顔でセノが写真機を手に取る。可能か不可能かで言えばもちろん可能だろうけれど、写真撮影ごときで力を借りるだなんて大マハマトラの無駄遣いにも程がある。 「そもそも、僕たちと酒を飲む時間も惜しいくらい、最近の君は忙しいんじゃない。そんな暇があるの?」 「講座はアムリタ学院の協力だと言ったな。ならば、マハマトラがそこにいるのは何ら不自然ではないだろう。監査と警備のついでに、少しお前の写真を撮るだけだ」  そうと決まれば完璧に撮影できるように練習をしなければな、なんて言いながら、セノはさっそく写真機を構えた。 「まったく……真面目なくせに、こういう時にはちゃっかり立場を使ってさ。調子良いんだから」  写真を撮られるときはこうするのだと、いつか旅人に教えてもらったピースサイン。片手でその形を作って、写真機のレンズに精一杯の笑顔を向ける。 「まだ表情がぎこちないな」 「他の人ならまだしも、君に言われる筋合いはないな。自分だって万年仏頂面のくせに」  いつものように軽口を叩くと、こわばっていた頬もすこし緩んだような気がして、そのままレンズ越しのセノに向かって微笑んでみせた。    ◆    シャッターを切るたび、かしゃり、手の中で小さく音が鳴る。  覗き込んだファインダーの向こうにティナリを捉えて、慣れないなりに懸命にピントを合わせる。草花と子供たちに囲まれて穏やかに微笑むティナリの横顔、その美しい瞬間を逃さずにフィルムへ収めていく。当のティナリは写真撮影のことなどすっかり忘れた様子で、綺麗な花やみずみずしい葉を参加者たちに見せ、滔々と説明を続けている。そこにあるのはいつも通りの、ティナリらしい自然な表情だった。  心から楽しそうに、夢中になっているティナリが好きだ。森の奥で黙々と草花のスケッチをしている姿も、その聡明さに憧れる人々に囲まれながら教え導く姿も。今も昔も、初めて出会った時から変わらない。学者として、ひとりの人間として、ティナリを見れば誰もが魅力的だと感じるだろう。  この景色を守れることが、幸せだと思った。 「なっ……大マハマトラ!?」  夢心地のファインダー越しの視界から、醒めるような現実に思考を引き戻す剣呑な呼び声。背後を通りがかった気配がにわかに緊張感に満ちたのを感じながら振り返ると、アムリタ学院の学生がひとり、目を見張り怯えた様子でこちらを見ていた。 「い、一体なぜこちらに?」 「事件ではない、警備に来ているだけだ。俺のことは気にしなくていい」 「そうでしたか……、あ、その、失礼しました……!」  まるで人に出くわしたイタチを思わせる慌てっぷりで、学生は足早に立ち去った。最後には逃げるように走っていく学生と入れ違うようにして、きょとんとした顔のティナリが現れた。 「セノ……何かあった?」 「悪い。怯えさせたようだ」 「マハマトラが警備に来るって伝えたはずだけどね、まったく。後でフォローしておくから気にしないで」 「すまない」 「君が謝ることじゃない。何も悪いことはしていないんだから」  いつの時代も、多くの学者はマハマトラに好意的な感情を持っていない。こうして怯えて避けられるか、あるいは敵対心を抱く者もいる。いずれにしても、慣れている。とっくに慣れたはずだ。  ――もう何も感じないはずのそれを、けれども、どうしてかティナリだけは見つけてしまう。 「ね、セノ。こっち向いて」  呼ばれるがままにティナリと目を合わせたとき、ファインダーの向こうに広がっていた幸せな景色を思い出した。ティナリはただ、あんな風に素直に笑っていてくれればいい。なのに、どこか困ったような笑みを浮かべるティナリの、その伸ばされた手が、頬に触れた温もりが――どうしようもないくらい優しくて、温かい。 「セノ。――そんな顔、しなくていいんだよ」 「どうもしてない。……俺にはわからないよ」 「僕にはわかるんだ。今日、セノがいてくれて助かった。本当だよ」 「……それなら、よかった。ティナリの役に立てたなら」 「ほら、顔を上げてよ。今日のお礼に、七聖召喚に付き合ってあげるからさ」 「本当か」 「もちろん」  思わずぱっと顔を上げると、ティナリはからりと笑って写真機を構えた。片目を閉じて、もう片方は写真機の向こうに隠れて見えないのに、レンズ越しに目が合ったような気がした。  ――かしゃり。ティナリがシャッターを切る音が聞こえた。 「うん、良い顔になったね」 「最高の礼のおかげだ。今夜、ランバド酒場でどうだ」 「食いつきがいいな……。構わないよ。ちょうどシティに行く用事もあることだし」  でもシティに着く頃には夜も遅いんだし一試合だけだよ、と付け加えられたティナリの言葉は届いていないふりをして颯爽と歩き出すと、ティナリが何かぼやきながら後を追ってくる。小走りの足音を聞きながら少しだけ歩幅を緩めて、それから、二人並んでシティへの道のりを歩き始めた。    ◆   「……それで、徹夜で朝までカードゲームをしてたのか?」 「そういうこと。予想はしていたけど」 「そうか。ガンダルヴァー村から来たにしては早すぎると思ったけれど、それなら納得だ」  幾度も続いた対戦の果て、朝日が差すころにようやくランバド酒場を出て、その足でカーヴェの暮らす家を訪れた。通されたソファに腰掛けると、どっと疲れが押し寄せてくる。カーヴェが淹れてくれた挽きたてのコーヒーが、今はありがたい。じわりと舌に広がる苦味と、喉を通る熱さに頭がすっきりしてくる。  経験上、こうしてセノと過ごす夜がそれほど簡単に終わらないことはよく知っていた。これで最後にするからもう一回だ、と終わりのないあと一回を繰り返し粘られる覚悟はしていた。  睡魔を忘れるほど夢中になって、ぶっ倒れるくらい真剣に七聖召喚に没頭する時間が、セノにはたまに必要になる。それが今夜だというだけだ。それを知っているから今夜ばかりは断らず、とことん付き合うことにしたのだ。 「でも、さすがに疲れたよ……あとは君に写真機を返して、教令院に写真を提出したら終わり。用事が済んだら帰ってそのまま寝るよ」 「ああ、それが良い。セノは?」 「これから仕事だって、まっすぐ教令院に行ったよ。シティからパルディスディアイまでの距離を往復した上に徹夜で遊んでから出勤するなんて、相変わらず体力が有り余りすぎだよ、あいつ」 「信じられない。セノのやつ、本当に恐ろしいな……」  カーヴェが呆れた様子で肩を竦める。同感だと頷きながら、こわばった身体を解すために両手で伸びをする。ぐるりと肩をまわしてから、荷物を開いて写真機を取り出した。 「写真機、貸してくれてありがとう。助かったよ」 「ああ。写真はちゃんと撮れたのか?」 「うん。セノも協力してくれて、たくさん撮ってもらった」  重ねるとそれなりの厚みがある写真の束も荷物から取り出す。コーヒーをこぼさないように気をつけて机に置くと、すぐにカーヴェがその写真を手に取った。 「うん、綺麗に撮れてるじゃないか。これはアビディアの森の花なのか?」 「パルディスディアイで育ててるものだよ。あまり見たことないでしょ」 「ああ、綺麗だな。これも、うん……ん? む……」  ぺらぺらと重なった写真をめくりながら、なぜかカーヴェの表情が曇っていく。それから目を見開いたり、次に眉間に皺を寄せたり、一人で百面相している。 「え。なに? 変な写真でもあった?」 「いや、変じゃないが、何というか……その。君たち、互いの写真を撮り合っていたのか?」 「うん? 講座の間、セノに僕の写真を撮ってもらったけど」  そういえば最後に一枚だけセノの写真を撮ったかな、と昨夜の記憶を辿りながら答える。言われてみれば講座の前に家に来たセノが練習代わりに僕を撮った写真も何枚かあったな、と思い出してそれも付け加えた。 「ティナリ。悪いことは言わないから、教令院に行く前にここで写真を整理したほうがいいと思うぞ」 「そんなに変だった?」 「……君が自分で見たほうが早い。僕の言いたいことがわかるはずだ」  そもそも君の写真を勝手に見た僕が悪かったんだが、でもそんなつもりじゃ、とか何とかぶつぶつ言いながら、カーヴェが写真の束を僕に手渡してくれた。終いにはいいから見てくれ、と言ったきり頭を抱えてしまったカーヴェの言葉に従い、言われるがままに上から順番に写真を手繰っていく。  植物のサンプルの合間に、唐突に自分の写真が現れる。ピースサインをしている自分が柄にもなく緩んだ表情をしているように見えて、思わずぎょっとしてしまった。この時こんな顔をしていたのか、と知らなかった自分の表情に気付かされてしまう。  これじゃあ自分がどんな顔をしているかわからないなんて言ってるセノのことを言えないな、とほのかな気恥ずかしさに包まれながら残りの写真を見返していく。講座の写真は良い出来栄えだった。人々の集まるパルディスディアイの一角と、子どもたちに囲まれた自分の姿。これなら教令院に出しても文句はないだろう。  そして最後の一枚、自分で撮ったセノの写真を見返したとき、僕は先程までのカーヴェと同じように、あまりの気恥ずかしさに頭を抱えて呻くことになる。    大マハマトラの威厳も恐怖も、いつもの仏頂面もそこにはなかった。これから始まる七聖召喚が楽しみで仕方ないといった表情で、ゆるりと微笑むセノの顔。その紅い瞳は喜びと期待に満ちて、まっすぐにこちらを見つめている。わずかに開かれた唇からは、ティナリ、と今にも名前を呼ぶ声が聞こえてきそうな気がした。  ――こんな顔は、きっと僕しか知らない。