恋は憚れない

 今日のアビディアの森には、強い雨が降っている。  午後になって急に降り出したどしゃぶりの雨は、夜になっても未だ止む気配がない。    朝方の穏やかな天気とは裏腹に、昼から吹き始めた風が運んできた暗雲によって空模様は急変。突然の雨と吹きつける風に、村中の誰もが急いで屋内に駆け込んでいく。強まるばかりの雨にこれはどうしようもないと判断し、レンジャーたちには今日の仕事は切り上げて全員自宅に戻るようにと指示を出してきた。  全ての隊員に指示が行き渡ったことを確認してから、僕も雨風に打たれながら急いで自宅に駆け込もうと走った、のだけれど。 「……なにしてるのさ、そんなところで」  行き場のないセノが、仏頂面でうちの軒先に立っていた。  きっとコレイの様子を伺うつもりでガンダルヴァー村に来たんだろうけれど、今頃は当のコレイも自分の家でじっとしているはずだ。運がないねと声をかければ、『近くまで来たから立ち寄っただけだ』なんて、妙な意地を張るのもなんだかおかしかった。    ◆    自宅でこなせる書類仕事をいくつか片付け終わって、ぐ、と両手を上げて伸びをする。  ちらりと横目で様子を伺うと、セノはリラックスした様子でベッドの上で足を伸ばしたまま、窓から空模様を眺めているようだった。家には机仕事用の椅子しか置いていないから、僕が椅子を使っている間、セノは床に座るかベッドを使うかしかない。それは当たり前といえば当たり前だけど、いつものことながら自宅のようにくつろいで僕のベッドを占領しているセノに、まったくこいつは、と心の中だけで苦笑する。  机仕事で凝り固まった肩の筋肉をほぐしながら戸口に向かい、掛けられた草木の簾を軽く上げてちらりと雨模様を確かめる。夜の暗闇の合間、村人たちの家から溢れるわずかな窓明かりが水たまりに映り、降りしきる雨雫に打たれてゆらゆらと揺れていた。  セノを連れて一緒に自宅に駆け込んでから、日が落ちる時間が過ぎて夜を迎えても、ざあざあと強く地面を打つ雨の勢いが弱まる気配は、まだない。 「この感じだと、今日中には止みそうにないね。今夜は泊まっていきなよ」 「ありがとう。助かるよ」  差し迫った案件があるわけでもないから、明日中にシティに戻れるなら十分だろう――と口では言いつつも、セノは雨足を伺うように外の様子を気にしていた。  多少の雨には慣れっこのレンジャーや村人たちが暮らすガンダルヴァー村といえど、さすがにこんな雨の夜にわざわざ出歩こうという人はいないみたいで、珍しく村には人の気配がしなかった。人の声がしない村はなんだか、地面を打つ雨音の騒がしさとは裏腹に――静かだ、と感じる。  誰もが息をひそめるように雨を凌ぐ今夜の森では、繊細な木々の葉擦れも、虫や獣の声も聞こえない。雨音に覆い包まれて、いつもより生き物の気配がしない森の夜。切り取られたような静寂に、雨音だけが響いている。  たっぷりと湿気を含んだぬるい風が吹いて、頬を撫でていく。じわりと汗がにじむような感覚が少しだけうっとうしくて、戸口から雨粒が吹き込んでこないように、しっかりと簾を下ろす。 「寝るよ、セノ」 「ん」  ちょっと詰めて、と言って、半分の広さになった自分のベッドにするりと入り込む。  普段は一人で使っているベッドは二人で眠るには少しばかり狭いけれど、二人ともさほど体格が良い方には入らないから、狭苦しくて困るほどでもない。セノは不定期に訪ねてきては気まぐれに泊まっていくといった調子だし、わざわざ別に寝具を用意するほど気を遣う間柄でもないから、毎回こうして並んで眠るのがお決まりだった。  よっ、と少し手を伸ばして、デスクに置いたランプの灯りを少し落とす。もし今夜、窓から差し込む月明かりがあればこのくらいの明るさだっただろうか。このまま眠っても良いと思えるような、けれども互いの姿が見えるくらいの加減。  二人分のやわらかなシルエットが壁に伸びる。  隣にいるセノの濃い蜂蜜色の背中を、淡いランプの光が暖かい色で照らしていた。  白銀の長い髪の下から覗く肩甲骨のラインに影が落ちているのをふと眺める。  武人にしては小柄で華奢な骨の上に、鍛え抜かれて引き締まった背筋。そのどこかアンバランスなセノの身体に、なんだか強くいとおしさを覚えて、戯れみたいにその背中に唇を落とす。 「ティナリ?」  セノは訝しむように名前を呼んだけれど、されるがままにじっとしていた。応えずに何度か繰り返せば、くすぐったいのかわずかに身じろぎする。そのしなやかな背筋をなぞるように、ちゅ、と音を立てて口づける。小さなその音は僕たちの間だけにわずかに響き、そうして、雨音に溶けていく。普段であれば凛と伸びている、気を許さない相手には決して見せないこの背に、ゆるゆると甘やかな愛撫を与えることを許されている。その事実に、じわりと安堵のようなものが広がる。  ――僕にはなにもかも許してくれているのだと、その身のすべてを晒しても平気なくらいに信頼されているのだと、思っても良いだろうか。  唇の隙間から舌先をほんの少し、這わせるように舐めてみれば、ぴくりと身体を震わせて背中を反らす。かちゃり、とセノが腰の後ろにつけている神の目が音を立てて揺れた。 「……ティナリ、」  背中越しに振り向いたセノの表情はあまり変わっていないように見えるけれど、その瞳の奥にほんのわずか、溶けたような熱が覗いていること、ちゃんと知っている。 「セノ」  愛おしい名前を呼ぶ。  振り向いたやわらかな頬に手を伸ばして、撫でるように触れる。素肌で触れると、少しだけ高いセノの体温を感じられて、心地良い。  腰に手を回して軽く引き寄せると、セノが目を閉じる。ほんのわずかの時間、密かにその顔を見るのが好きだけれど、それはセノには言っていない、僕だけの秘密だ。  そうして、深く口づける。  ん、とセノが小さく声を上げたのが、耳によく響いた。  騒がしかったはずの雨音も次第に意識の外に追いやられて、互いの息遣いと絡めた舌の感覚ばかりで侵されていく。いとおしくて、大切で、これだけでいっぱいになってしまいそうで――今は、それだけを感じていたい。  降りしきる雨の覆いに囲われて、切り取られたような小さな家の中。  周りのどんなことも気にかける必要もなく、今夜だけは、互いの熱に溺れていたかった。    かちゃり、再び神の目が揺れる音がした。  身体がぴたりと触れ合うくらいに抱き寄せて、腰に回した腕を伸ばす。  そうして指先だけでそれを探りあてて、セノに気づかれないように、そっと手のひらで覆い隠す。  ――今この瞬間の君を、神様にだって見せたくなかった。